ニュータウン
1960年代に入って、新しい住宅市街地開発の手法としてニュータウンがあちこちにできたが、開発の考え方の基となっていたのは、イギリスの大ロンドン計画のニュータウンだ。都市化による過密の弊害を克服しようと世紀を超える試行錯誤を重ねて、既存市街地の拡大をグリーンベルトで抑え再開発し、その外側に計画的、先行的に自立的都市を造ろうとしたのが大ロンドン計画である。計画的、先行的な都市域の拡大開発手法として、ニュータウンは各国に広がって行った。計画的な街の原則としては、道路が交通アクセスとしての機能と、電気、ガス、上下水道などエネルギー供給や水処理を可能にする機能が一体となって、宅地との関係で基盤整備され、非常時の消防自動車や救急車のアクセスを確保することが第一にある。近代都市生活を支えるのは、まず道路ということになる。
しかし道路も歩くことで自然に踏み固められたけもの道から、都市間のできるだけ早い到達を可能にする高速道路まであり、自動車交通が可能な道路でも歩行者や自転車交通との速度の相違から、計画的都市では危険を生じないような工夫が種々なされている。幹線道路、区画道路、細街路、歩行者専用道路などの区分けは知られているだろう。結節点といわれる相互が交わる場所には、立体交差やインターチェンジなどの技術的な解決方法が考え出されており、経済性との兼ね合いもあるため、高速だったり交通量が多い場合に使われる。既存の都市を自動車交通に対応するように、道路を拡幅したり舗装することは、ヨーロッパでは19世紀後半に都市域の拡大と共に行われている。パリのオスマン男爵による改造は有名だが、ウィーンでもバルセロナでも同じような時期に、産業革命に伴って、中世の城壁を越えた都市活動が求められて整備された。自動車の普及は20世紀に入ってからだが、馬車交通による物資の移動に対応する必要があったのだ。
計画的に道路が各敷地にきちんと接している街区の開発は、商業・業務地では高層化のために広幅員道路の確保が必要条件であり、住宅地であれば開発後に住宅街としての質の高さが評価され、高級住宅地となっていく。東京でいえば田園調布、ときわ台、大和郷、西片町など戦前の開発が今に至って、地価で評価されることになるが、都市の迷宮のような袋路に郷愁を感じる向きもある。ニュータウンは細街路や袋小路の対極にある、近代的明解な道路線形でデザインされることが多い。そうした道路計画の下で成立した都市は札幌やアメリカの都市などがあるが、高級住宅街と同様、ニュータウンとはいわない。高級住宅街では都市の規模に至らないためであり、新規の計画都市は、母都市の拡大に伴うという関係性が見られないことからだ。いわゆるニュータウンは都市域の拡大を計画的に整備する手法の一つとして位置づけられている。
イギリスの大ロンドン計画の後、フランスでもパリの住宅政策としての大団地建設が「陸の孤島」といわれる状況を受けて、交通網に組み込み、住宅だけの機能ではなく業務・商業を含む都市として整備する必要から、パリ周辺に5つ、リヨン、リール周辺に各1つのニュータウン建設を国家プロジェクトとして決めている。パリは住む権利を保障した住宅政策として大量の住宅を建設した結果、移民政策と相まった「郊外問題」を抱えているため、業務・商業の都市機能を持ち、社会保障としての住宅でない中級以上の住宅建設を可能にするニュータウンの差別化が必要とされる面もあったようだ。日本のニュータウンはフランスと同じ時期に建設が始まったが、中堅勤労者層の良質な住宅を供給することに主眼がおかれ、新住宅市街地開発事業や区画整理事業などの手法で、当時の住宅公団(現都市再生機構)、地方自治体などが計画主体の中心になった。日本初といえる千里ニュータウンは大阪府企業局によって企画遂行され、住宅公団が手掛けた最も古いニュータウンが名古屋郊外の高蔵寺である。最大といわれる多摩ニュータウンは住宅公団(当時)と東京都などの手による。
東京周辺では多摩NTの他、横浜市の港北NTと千葉NTが大きい。自治体と公団が手分けしている形だが、港北NTは神奈川県ではなく横浜市で、広大な面積を区画整理事業のみで行っているのに対し、千葉NTは新住宅市街地開発法の事業だけで建設されている。筑波研究学園都市は国家プロジェクトで、筑波研究学園都市建設法に則って推進された。都心部の大学や研究機関の新都市への移転に、それだけ反対が強かったということでもあるのだろう。また民間の手になるのは東急電鉄㈱の沿線開発である多摩田園都市が、人口55万人で最大とのことだ。
こうした代表的なもの以外に、各地にたくさんのニュータウンがあり、規模の小さい、いわゆる団地をも計画的住宅街として含めると、その数は膨大になるが、近代都市の当り前の風景といえるのか、最初の千里NTの入居から40年以上を経て、入居者の世代の偏りが問題視されている。人工的なまちの課題を先取りしきれなかったともいえ、初期のニュータウンは駐車場が不足したり、住民の高齢化進展に伴う集合住宅の階段の手すりはともかく、エレベータ設置の難しさや、少子化も相まった学校の統廃合など、時代の流れが急激な中でローマは1日にして成らず、まちの成熟に否応なしの歳月を要することは確かだ。20世紀初頭にエベネザー・ハワードが明日の田園都市を提唱したときが人口3万人で、それまでの理想都市の実験3千人を1桁超えたが、半世紀後のニュータウンはさらに1桁の増加を見たものの、計画性の評価にはまだまだ時間がかかるのかもしれない。
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